見よ、この人だ(1)

工作員フィットの人間像

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この記事では、工作員フィットの原動力となった言葉を紹介します。

ここに挙げられたような本を読むと、トレーニングや各種アクティビティに向けたモチベーションが向上します。

不屈の人

大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかっても未だに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐げられるという・ありきたりの事実に就いてである……彼は地団駄を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。

『弟子』中島敦

気さくなイギリス人は日本兵にこう言った……「われわれはわれわれの祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐに悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。わたしはかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない」。

戦争に抵抗もせず、軍部や政府から特別いじめられたということもなかった人々が、勝利者に対し「日本は軍国主義の鬼だった」「気ちがいだった」と言って廻ってくれたのには抵抗を感じた……ヨーロッパ人には、いったん自分がとった重大な行動の責任は、どんなことがあってもなくならないとする考え方がある。

『アーロン収容所』会田雄次

責任が人間的主体の実存的様式だとすれば、非道徳的要素(たとえば、利害、利益計算、最良の解決策の合理的模索、あるいは、威圧への屈服)の影響を受けることのない、対人関係のもっとも純粋な基本構造こそ道徳だといえる。道徳の本質は他者にたいする義務、あらゆる利害関係を超えた(単なる義務とは違う)義務であるから、道徳の根は文化の根のように支配や、社会的取り決めといった層の外まで伸びている。

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道徳は社会的産物ではない。道徳は社会が操作する、つまり、利用し、方向を変え、妨害する何かである。

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ホロコーストの教訓とは、よき選択肢の存在しない状況や、よい選択肢があっても代償が高すぎる状況におかれた人のほとんどが、なにかと口実をつけながら、いとも簡単に道徳的義務の問題から逃避し、かわりに、合理的利害と自己保存の鉄則を身に着けるという点である。

『近代とホロコースト』バウマン

モンゴメリーの近くで育ったローザ・パークスは、小学生のころ、黒人の子供ならほとんどだれでもそうであったように、人生について2つのことを学んだ。まず第1に、白人が自分たち黒人に何か悪いことをしても、「口答え」や仕返しをすれば危険な目にあうので、自分のまわりの白人には注意しなくてはならないということ。
白人に間違った態度をとったり、間違ったことをすれば――たとえそれが正当であっても――黒人は殴られ、リンチにあうこともあったのだ。

第2に彼女が教師の母親から学んだことは、この現実があるべき姿ではないということだった。

『黒人差別とアメリカ公民権運動』ジェームス・バーダマン

おお、エイハブ! いまからでも遅くはありません。ご覧ください! モービィ・ディックはあなたを求めてはいません。やつを狂ったように求めているのは、あなた、あなたなのです!

『白鯨』メルヴィル

インドにおいてガンディーは外国の力を呼び込んでおり最終的にそれがより現実的で先見の明があった。南アフリカのアフリカーナーに対して、この構図は当てはまらなかった。
非暴力の受動的抵抗は、相手が同じルールに従う限りで有効である。もし平和的な抗議が暴力で対処されるとしたら、意味はなくなる。わたしにとって非暴力は道徳原理ではなく戦略だった……無意味な武器を使うこと自体に道徳的な価値はない。

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国家はその国の上流階級をどう扱っているかではなく、最下層をどう扱っているかで判断されるべきである。そして南アフリカはアフリカ人収容者を動物のように扱った。

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どんなに冷血に見える者でも、あらゆる人間は良心を持っているものだと知っておくべきである。……かれは残虐に振舞ったが、それはかれが残虐な振る舞いによって報償を受けてきたからである。

『Long Walk to Freedom』Nelson Mandela

……だが、俺が精神的に疲れ果てた一番の理由は、俺や仲間たちがこの国で戦っているのが、腐敗して自国民から嫌われた政府のためであり、主権を主張する権利もなくした市民のためであること、そして、われわれの支援しているのがまったく無能な軍隊であることに気づいていたからだ。
俺にとって戦争は決してただの稼ぎ口ではなかった。自分がどちら側について戦い、どんな価値を擁護しているのか知っている必要があった。
ゲス野郎が他のゲス野郎を叩きのめすのを手伝うこと、たとえそっちが最初のゲス野郎よりもっと残虐で冷血であろうとも、そういうのは俺に合わなかった。

『ワグネル:プーチンの秘密軍隊』マラート・ガビドゥリン

観察する人

時間を持つことは、空間を持つことより重要である。空間と権力と金は、時間が与えられないならば、手かせ足かせの桎梏である。自由は時間の中に潜んでいる――結局のところ、個々人は、時間の使い方の弁明を自分自身に対して行わなければならない。時間こそ、彼の財産である。

『小さな狩り:ある昆虫記』エルンスト・ユンガー

権力を増強しようとする要求は人間の値打ちが下がるに従って大きくなるものです。

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(ナチ党について、かれらが)劣った種族だとわかるのは、多種族と比較して自らの威勢を誇示しようとし、他民族を自らと比較して貶すことからである。

『ユンガー=シュミット往復書簡』

人はやむをえない状況から善人になっているわけで、そうでもなければ、きまってあなたにたいして、邪になるものだ

『君主論』マキャヴェリ

われわれ人類は敵対人(ホモ・ホスティリス)、つまり、敵対する種、敵をつくる動物なのだ。

『敵の顔』サム・キーン

この世は自然の定理のみ。神仏など居ない。そんなことは数千万年前の人間にだってわかっておったことで、だから人間は神を造る必要があった。ミスったときに神のせいにできるから。心の外に裁判官をおけば、ミスった代償として罰がくだされ、量刑を得て、罪が帳消しになる。

『怪しい来客簿』色川武大

わたしたちの現実の人生は、4分の3以上も、想像と虚構から成り立っている。善や悪と本当に接触するなどということは、稀にしかない。

『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ

むやみに、他の組織の人とネットワークを作ろうとするのではなく、自分が与えるものが人をひきつける磁気となって半ば自然とネットワークが広まるということになれば理想である。
人をひきつけるものとして考えられるのは、いつもいわれるように情報、人柄、覇気、話題、才気、判断力などである。地位と金ですべてが動くと考えるのは大きなまちがいである。自らがどの点で優れているのかを真剣に考えることも必要になるだろう。
人畜無害の微笑だけが売り物というのでは弱い。

『社会科学入門』猪口孝

15年か16年をそこで費やしたのちに学校からもどってくる生徒を見たまえ。これほどまで実際の役にたつのにむいてないものもあるまい。あなたがたがそこに認める、前とはちがったことといえば、彼のラテン語とギリシア語が、彼を家から出ていったときよりいっそう高慢に、いっそう思いあがりにしたことだけなのだ。彼はそこから満ちた魂を持って帰るべきだったのに、ふくらませた魂をしか持って帰らない。

『エセー』モンテーニュ

その説得とは、正と不正について、そのことを教えて理解させるのではなく、たんに信じこませることになるような、そういう説得のようですね。

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それは、技術の名に値するような仕事ではないが、しかし、機を見るのに敏で、押しがつよくて、人びととの応対に生まれつきすごい腕前を見せるような精神の持主が、行うところの仕事なのです……わたしとしては、迎合(コラケイアー)と呼んでいるのです。

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……この人たちもまた、市民たちの機嫌をとることのほうへすっかり傾いてしまっていて、そうして、自分たちの個人的な利益のためには、公共のことは無視しながら、まるで子供にでも対するような態度で、市民大衆につき合い、ただもう彼らの機嫌をとろうと努めるだけであって、そうすることがしかし、彼らを一層よい人間にするのか、あるいはより悪い人間にするのかという、その点については、少しも考慮を払わないものなのかね。

『ゴルギアス』プラトン

……しかしながら、これは、教育に、もともとありもしない能力を認めることである。教育とは、社会を映す像であり、またその反映にすぎない。教育は、社会を模倣し、それを縮図的に再現しているのであって、社会を創造するものではない。国民自身が健全な状態にあるとき、はじめて教育も健全なものとなるが、それはまた国民とともに腐敗するのであって、自力で変化することはできないのである。

『自殺論』デュルケーム

不服従の人

わたしたちは人間の「自由」を説きつづけてきた。しかし、「人間」を忘れ去ってしまったために、わたしたちは「自由」を、他者に損害を与える場合だけ制限を受ける、漠然とした放縦として定義するようになってしまった。これではその意味が失われてしまう。なぜなら、他者を巻き添えにしないような行為など存在しないからだ。……純粋な個人というものは存在しない。

『戦う操縦士』サン=テグジュペリ

自分の権利があからさまに軽視され蹂躙されるならばその権利の目的物が侵されるにとどまらず自己の人格までもが脅かされるということがわからない者、そうした状況において自己を主張し、正当な権利を主張する衝動に駆られない者は、助けてやろうとしてもどうにもならない。

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「みずから虫けらになる者は、あとで踏みつけられても文句は言えない」

『権利のための闘争』イェーリング

「どうしてわたしが作家にならなかったか、わかるかね? ……わたしにはいうべきことが何もないのに、すぐさま気づいたからだよ。要するに、わたしには一度も生活した経験がないということだ」
置かれた立場がきわめて悪化し、まったく解決の見通しのつかぬとき、残された道は殺人か自殺かのどちらかだ。あるいは両方か。そのどちらも果たせぬとなれば、あとは道化になるしか道はない。

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『ただ1つの罪がある。それは弱さである……愚行の上に愚行を重ねてはならぬきたるべき悪に弱さを加えてはならぬ……。強くあれ!』
……ところが世の中の連中は正反対のことをやる。彼の言葉に拍手を送った連中が、話の終わったとたんにもう教えにそむき始める……大家についての話を聞くのはいいが、ではさて大家になるかといわれると、とんでもないとばかり逃げ腰だ。

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おまえは他人と違うとうぬぼれているが、実際はおまえが口をきわめてけなす連中とすこしもえらぶところはないのだ……罪はただ一つしかない。それは弱さだ。

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アメリカの精神的痔疾など、古きヨーロッパのラスコーリニコフやカラマーゾフたちにとってなんであろう?」、「平和と豊穣と安全の雰囲気に育った人間が、殉教者の子孫に何を言い得ようか? 彼らの運命の記憶は、もはやぼくたちの中に燃えてはいない……忘却の川の水にはぐくまれ、ぼくたちはへその緒をなくし、合成品の流行にうつつをぬかす忘恩の民となってしまったのだ」

『ネクサス』ヘンリー・ミラー

「親愛なレダンよ、ぼくが言いたいことはこれだ……人間は自分と同等な人間たちより高い地位に置かれることにより何人もする権利のないことをするように求められることにより、すなわち施しを与えたり受けたり、判決したり罪を宣告したり、本来あらゆる人間が受ける資格を持つところの特権であって、なんらの恩恵でもないことを恩恵として感謝されるのを受け取ったり――およそこうしたことによって、人間は自己の人間的威厳を奪われることは許されない」

『わが読書』ヘンリー・ミラー

現代の進歩は病気ばかりなのだ。無人島もなければ、天国もないし、比較的な幸福さえもない。そして人は自分というものから逃げるのに熱中するあまりに、浮氷群の下や熱帯の沼沢地帯に救いを求め、でなければヒマラヤ山脈を登ったり、成層圏で窒息したりしている。

『暗い春』ヘンリー・ミラー

ぼくの見方からすれば、世界は堕落しつつある。暮らしてゆくには、たいした知性など必要ではない。それが現状だ。実際、ろくろく知性なんてものをもっていなくても、楽に暮らしてゆける
……1つのちょいとしたことを適当にやる手、それだけを心得ていれば十分なんだ
……なまじ芸術癖などもっていたら、年がら年中、ばかくさい判で押したような日課をやりとおせるもんじゃない。芸術は人を落ちつかなくさせ、不満を感じさせる……そこで彼ら(わが国の産業組織)は、そいつらが人間であることを忘れさせるために、気なぐさめの、つまらぬ代用物を提供するんだ……これからは美術館や音楽会へいってもらうために日当を支払わなければならなくなるだろう。

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「もう1つぼくが心からその価値を信じないものがある――労働だ。労働、こいつは人生のほんの門口にいるぼくにとっても、愚鈍な人間のためにとっておかれた活動であるとしかおもえない。それは創造とは正反対のものだ。創造は遊びであり、それ以外に何の存在理由もないがゆえに人生における最高の原動力なのだ」。

『ネクサス』ヘンリー・ミラー

しばしば私は、自分自身を非難するために、彼らを非難すべき理由を探した。なぜなら、私は多くの点で彼らに似ているからだ。

人生の驚異と神秘! 私たちが社会の責任ある一員となるまで、めいめいの心のなかに抑圧されている人生の驚異と神秘。私たちが社会に働きに出されるまでは、世界は非常に狭く、私たちは、その辺境に――いわば未開拓の地に――とじこめられていた。

『南回帰線』ヘンリー・ミラー

年をとるにつれて、生活がおのれの意志とは関係なく勝手に進行するように思われることだ。つぎになすべきことは何かなどということを議論してもはじまらないんだな。はじまらないから、つい、ぶつくさ不平ばかり鳴らすようになる。

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スタンレイのうしろには、いつも、戦士、外交官、詩人、音楽家といった系列が見えるのに、このおれはといえば、祖先なんてものがまるでいないのだ。自分でつくりあげるしかないのだ

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アラビア語にしろ、またナヴァホー族のことばにしろ、それを知るためには現地人にならなければだめです……ぼくらを賢明にしてくれるのは年齢ではありません。人びとは経験だというようなふりをするけれども、それでもない。要は精神の敏活さです。
「この世において――そしてありとあらゆる世界において――階級は2つしかない。敏活なるものと死せるものとの2つです……人間は、いったんその本来の姿である神になったとき、みずからの運命を自覚する――その運命とは自由です」。

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自分自身の世界をもち、そのなかに住むことは、かならずしも、いわゆる現実の世界に眼をつむっていることを意味しはしない……芸術家は、その内面に、あらゆる世界を保有している。それでいて、彼は他のいかなる人間にも劣らずこの現実世界の強力な一部なんだ……世界は彼の媒体なのだ……おれが世界を照らし出すんだ……しかし、それを弾劾しようとは思わない。なぜなら、自分がその重要な一部であることを、その機械の有用な歯車のひとつであることを、あまりにもよく知っているからだ。

『プレクサス』ヘンリー・ミラー

いったい人間になにができるか。それがわかれば、人間の崇高さにも、その卑しさにも、驚くことはないはずだ。どうやら、そのいずれの方向にも限界はないらしい。

『冷房装置の悪夢』ヘンリー・ミラー

われわれは実に多くの若者が人生を恐れているのを知って唖然とした。彼らの心理は年寄り、病人、虚弱者のそれであった。

『追憶への追憶』ヘンリー・ミラー

“We want plot because our lives are purposeless, action because we hae only an insect activity, character development because in turning in upon the mind we have discovered that we do not exist, mystery because the dominant ideology of science has ruled mystery out of our scope and ken. In short, we demand of art a violence and drama because the tension of life has broken down…(私たちがプロットを求めるのは、私たちの人生に目的がないから。アクションを求めるのは、私たちの活動が昆虫のようでしかないから。登場人物の成長を求めるのは、心を見つめると、私たちが存在しないことを発見したから。ミステリーを求めるのは、科学という支配的なイデオロギーが、ミステリーを私たちの視野と理解の範囲から排除したから。つまり、私たちが芸術に暴力とドラマを求めるのは、人生の緊張感が崩壊したから……)”

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“…Lawrence writes–Being alive constitutes an aristocracy which there is no getting beyond. He who is most alive, intrinsically, is King, whether men admit it or not… More life! More vivid life! Not more safe cabbages, or meaningless masses of people(…ローレンスはこう書いている。生きているということは、この上ない貴族階級であるということ。人々が認めるかどうかに関わらず、本質的に最も生きている者が王である…もっと生を!もっと生き生きとした生を!無害なキャベツや無意味な大衆ではなく!)”.

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I realized that I was ostracized and I understood quickly enough that this was just, because if one chooses to live his own life in his own way he must pay the penalty(私は自分が追放されたことに気付き、これは当然のことだとすぐに理解しました。なぜなら、自分の人生を自分のやり方で生きることを選ぶなら、その代償を払わなければならないからです).

『The Cosmological Eye』Henry Miller

書を捨てよ、の人

……盛は、まもなく元が狭い世界にとじこもって、あまりにもひとりぽっちで暮らしていることを知って、元の考え方を非難しはじめた。
……ぼくらは故国にいるときは書物を崇拝していた。ところが、その結果は、げんにきみの見るとおりだ。
この国の人間は、世界じゅうのどの民族よりも書物に関心をはらわない。生活に役にたつものだけに関心をもつのだ。彼らは学者を崇拝しないで、逆にばかにしている。
彼らの口にする冗談の半分は教師を種にしたものだ。給料だって召使に払うよりもすくないくらいだ。してみれば、そういう老先生たちから、この国の人間の秘密を知ることができるとは思えないではないか。また百姓の小せがれから学ぶだけでは十分とはいえないだろう。
元、きみはあまりに偏狭すぎるよ。きみはひとつのこと、ひとりの人間、一つの場所だけにかじりついて、ほかのものをみんな見のがしているのだ。
どこの国民よりも、この国の人間は、書物のなかでは理解できない。彼らは自分たちの図書館に世界じゅうの書物を集めて、小麦や金を集めて使うようにそれを使う――書物は彼らの持っている計画のための資料にすぎないのだ。
元、きみは一万冊の本を読んだって、彼らの繁栄の秘密はわからないぜ。

『大地』パール・バック

この退屈で、暇な作家あるいは読者たちは、疑いもなく語るに価するようなものはどんなものも持たないので、主人公たちと全く同じように、尽きることのない、むなしい内面生活にかたむいて行っていたからである。

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弱さと、その言い分けを描くのに没頭している文学。

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「反対に、文学が人間に関心をもち、人びとに関心を持たせようとするとき、今度は芸術がそこからしめ出される……あきらめてしまった著者たちや、恥知らずの著者たちが、多くのお客を同時に満足させねばならぬ複雑な産業に奉仕して、ためらいも不平もなく、その創作物をゆがめている」、「感傷的な小説からエロチックな文学にいたるまで、成功は常に分泌腺、涙腺、その他の腺に、働きかけることにある。芸術はどうかといえば、芸術はそのさい材料の並べ方に関する1つの科学に、そしてある一定量の職業的知識にすぎないものになりさがる」。

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作家はもはやぼんやりした、なぞのような、錯乱したものしか作らない。

文学には、目的が漠然とし、効果があいまいで、説得力を持たない、という書きものしか属さないことになる。

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社会は奇妙なことだが無知に味方する。社会は事実を隠す書物を他よりも好む。社会は事実を教える書物をまず第一に有害なものと見なす――社会は、既成の秩序に対する単純で、機械的な尊敬を、市民たちの最も信頼のおける、望ましい態度と考えているのである。

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人間の中には偉大さと犠牲を求める心が自ら進んで現れる、ということをことさらに無視するのは、欺くことである。

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人間を扱う時の深さというのは、人間をその最も広いひろがりの中において、彼の持つ暗い面、明るい面の何ものをも見落とすことなく、理解することである。

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コンラッドのような作家は「何かの仕事をやりとげた後で、彼らがそこから得た経験を知らせるために文学にやって来る。彼らは必ずしも最も巧妙で、感嘆すべきものであるとは限らない。しかし、彼らはしばしば最も良心的である。誇張と放縦のわれわれの時代に、彼らの慎重さに霊感を得、彼らの声の響きに耳をかたむけることは、確かに有益なことである」。

『文学の思い上がり』ロジェ・カイヨワ

爆撃を生き延びる人

ああ、人生って何だろうと人並みに考えるわけだが、なにせ落第生だから、自分で考えだすよりも、昔のエライ人の考えをカンニングして代用しようというコスイ考えなのだ。

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若者たちは、まるで全国民におどかされて死におもむいているようなものだった。

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ぼくは、たいがいがゆったりしたタチだから、ゆったりとかまえていた。ところが、ふつう初年兵はオドオドしているものらしい。ぼくがゆったりかまえていると、古兵の一等兵や上等兵はかってに、あれは将校だとカンちがいして世話してくれる。将校用の風呂へ案内して背中までながしてくれた。まもなくバレて、えらい目にあった。

『ほんまにおれはアホやろか』水木しげる

(ナチス・ドイツについて)1つの疑問にたえずつきまとわれていないものがいただろうか、1つの疑問、つまり、ドイツが今のいわゆる政府なるものに確固として従うということ、ここ10年来同じ歓声をはり上げる聴衆を前にして、同じホールで、同じお喋りを定期的に繰り返している半ダースのわめき立てる連中、自分たちだけがそれ以前の何百年よりも、また他の世界の理性よりも、はるかにものが分かっていると、信じ込んでいるこの6人の道化師に、つねに従って行くなんてこと、こんなことがどうしてこれまで可能であったか、どうして今もなお可能なのか、という疑問である。

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戦争5年目の軍隊は、2つの階級、つまり中尉と元帥によって担われていて、その他はすべてディテールにすぎない。
中尉たちはヒトラー少年団の出身であって、書物や行為から思想的道徳的人生内容を組織的に焼却して、その代わりゴート族の首長とか短刀とか――そして行軍演習のときには夜営用に乾草の山がいるなどという教育を受けてきていた。

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ゲッベルス配下の著作家たちの文章にはたびたび「若き民族」という言葉が出てくるがこれが正しいとすれば若干27歳のソ連が勝利にふさわしいのだろう。リルケやヘルダーリーンは巧妙に歪められて援用された。
宣伝相ゲッベルスは白い歯をむき出して戦傷者たちに微笑みかけ、空相ゲーリングはサンタクロースになって街頭に立つ――童話の世界がわれわれを包みこんでいる。

『ゴットフリート・ベン著作集1』

キャスカート大佐は勇敢な軍人であったから、どんな目標でも躊躇なくみずから志願して部下に爆撃させた。

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「キャッチ=22だ。戦闘任務を免れようと欲する者はすべて真の狂人にはあらず」

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「おまえが新しい大隊長だ」とキャスカート大佐は掘割ごしにどなったのだ。
「だが、それになにか意味があると思うなよ。意味なんかありはせんのだ。意味といえば、おまえが新任大隊長だということだけだ」。

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……キャスカート大佐も民主主義精神に満ち溢れていた。彼はすべての人間は平等につくられていると信じており、したがって連隊本部以外のあらゆる人間を平等な熱情をもっていじめつけた。

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「おまえはおれたちの味方かおれたちの敵か、どっちかひとつだ。ふたつの道はないのだ」。

『キャッチ=22』ジョーゼフ・ヘラー

この世で貧乏人に許された死に方は二つきりしかない、つまり平時に同胞の完全な冷淡さによってくたばるか、それとも戦争の到来とともに同じ連中の殺人熱によってくたばるかだ。

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戦争って悲しいものだね、<おそろしい>と思うことさえあるよ、でも、しっかり勇気をもっていれば、きっと切り抜けられるよ、殺される人間は彼女にとっては事故としか考えられないのだった。競馬みたいに、しゃんとしてさえいれば、落馬しないというわけだ。

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「戦争で焼き殺された者もいれば、温められた者もいる、ちょうどその中におかれるか、前におかれるかで、火が拷問にもなれば慰安にもなるようなものだ」、「生活は、人をねじまげ、顔をおしつぶす……貧乏は巨人だ、そいつは世界のよごれをぬぐうのに僕らの面を雑巾がわりに使うのだ」。

『夜の果ての旅』セリーヌ

そう言えば、いつだったか、奥州町の萩原稔が、戦場に行って生死の境をさまよったもんは、みんな運命論者になるんじゃなかね、と言ったが、自分は運命論者と言うよりは、運論者といったところだろうな、ま、運命も運も同じことなのかも知れないが、と芳太郎は思った。

『断作戦』古山高麗雄

鉄の軍紀であるはずの階級そのものが、少なくとも兵隊の社会では完全に無視されていた……兵隊の実際の階級秩序は、初年兵・二年兵・三年兵という一種のカーストで成り立っていた。さぼりがちな万年一等兵は、二年目の上官に「古兵殿」とよばれていた。年功序列は日本土着の秩序である。

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……だが私の体験では、社会の底辺にいた人は、軍隊に来てもやはり軍隊の底辺にいた。

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いわゆる愚連隊的人間が、戦場では一番臆病だという定説があるが、私の体験はほぼこれを裏づけてくれる。

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日本の軍人は、日本軍なるものの実状を、本当に見る勇気がなかった。見れば、だれにでも、その実体が近代戦を遂行する能力のない集団であることは明らかであり……社会は、能力なき集団に報酬を払ってはくれない、昔も今も、いつの時代も。

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「戦場は殺される場である者」と「戦場は殺される場だと口にする者」との、決定的な差がある……そして、こういう言葉を口にするのが商売の人、いわば常に「王様より王党的」な言葉を口にし、苦労している本人よりもその苦労がわかっているかの如く口にし、人の苦しみを正義・人道という包装紙で包んで売っている人たちには、この差が絶対にわからない。

『私の中の日本軍』山本七平 

ガ島へ渡った者はね、どんな誇大なつくり話をしても、そのつくり話が通るような生活を送ってきましたからね。トカゲや蛇を食べたんですってね、とか、聞かれるけれど、そんなものいい方ですよ。うちの兵隊なんか、おしまいの方には戦友がしたウンコの中にうごめく回虫を食べたりしましたよ。

『ガダルカナル戦記』亀井宏

外国語を勉強する人

外国人は一般に語学が達者であるやうに言われていて、その上にこれは事実である……一般に外国人は、外国語もただのそういう言葉として考えることに馴れている。

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或る道に深入りすればする程、解らないことばかりになるのは英語に限ったことではないので、英語でもそうであるからと言って英語の道は人間の一生では究めつくせないという風なことが普通の人間にまで適用されるとなると、可哀そうに、英国人やアメリカ人は満足に口が利けずにいるうちに墓場に運ばれることになる他ない。
英語の道などということを考えれば、「口を利く道、ものを書く道などというものまで認めなければならなくなる」。

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最低11年間、それも子供の時から英語をやらされて、これで大学を卒業する時までに英語を覚えるかと言うと、その数があまり少ないので、覚えたものは大概、英語の先生にさせられた。

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少なくとも英語を習いたての人間はゆっくり、ゆっくり話す。当たり前であって、我々は軽薄才子でない限り、日本語を話している際にもそんな、落語に出てくる野太鼓のような口の利き方はしない。
大体、自分が日本人であることと、その日本人である自分が英語を話しているということを対立させることから出発して」いる。
「それ故に、日本で英語が旨い人間は、皆どこか様子が変である」。
聞いていて、テケテンドンドン、テンドンドンと鳴り響く太鼓に似た音を、眼をきょろつかせながら出すことが、或る言語に上達したことなのだろうか。

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(文章を書くのがそんなに簡単なことならば)文士という職業も成立しなくなる。第一、誰でもが出来ることを十年も二十年も掛って、やっと出来るようになるのであるならば、文士というのは低脳の別名に過ぎない。

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それから、ユウモア小説がある。日本にもこの種類のものが一時はあったが、笑っては文学ではないかして、この頃では全く見掛けなくなった。

英国には優れた文学があるが、同時に英国人の一部にはひどく文学を軽蔑する傾向がある。綺麗な詩を書いた所で何になるという態度であって、従ってシェイクスピアもこの傾向の対象にされることを免れてはいない。それだから優れた文学が生れるという見方も出来るので、本ものの作品を書かなければ通らず、そういう作品を愛読するものは、一方には文学などに眼もくれない人間がいるだけ、文学に対する理解と批評眼があって、作品を書くものにとっても仕事のやり甲斐がある反応を示す。

『英語と英国と英国人』吉田健一

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