朝聞道、夕死可矣
もし人生の無意味さに哲学的な意味があるとすれば、それは何か普遍的なものの認知から生じるのでなければならない。このような条件が満たされるのは……われわれが人生に対して抱く真剣さと、真剣に取り組んでいるあらゆることが恣意的なことあるいは疑問の余地があることとみなされうるという常に開かれた可能性とが、衝突する場合である。
(ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』)
工作員活動をしていると、自分の時間のほとんどはトレーニングに使われます。その結果体力や技術はある程度身につくものの、スポーツ選手でもないので、それで何ができるというわけではありません。
地形訓練、格闘技、テクニカルダイビング、スカイダイビング、ウェイトトレーニングその他をやればやるほど、少しずつですが能力の成長を実感する一方、「一体何のためにやっているのか」という疑念も生じてきます。
しかし、わたしは信徒や門徒ではないので、何をやっても、自分の行いを冷めた目で見ずにはいられないことを発見しました。
『論語』の一節に「朝聞道,夕死可矣」1とありますが、わたしは現在、何も思い通りにできていないし、今後も完全にできることはない、ということを確信しています。
なぜなら、水中・空中で忍者のように飛び回りたい、山岳ゲリラのように不眠不休で山を移動したい、圧倒的なフィジカルで近接格闘を支配したい、というような、人間の欲求は際限がないからです。
今日、あるいは明日、身ぐるみはがされて、無人島に放り込まれるとしても、自分自身の意志と肉体をもって生存できれば構わない、という境地となりました。
すなわち、いつでも無人島に追放される覚悟と、生き延びる意志はあります。
捨てる
厳しい修行を行い、さらにそれを捨てるということについて。
以前、皇太子殿下が吉野の蔵王堂にいらっしゃいましたとき、管長様に「千日回峰行をしたらどうなるんですか」と御尋ねになられました。
そのときに「千日回峰行を満行した者は阿闍梨と呼ばれますが、社会的には何の価値もないものです」とお答えしておられました。
ですから、行をしたというだけでは何の意味もないのです。
よく師匠から、行が終わったら行を捨てなさいと言われましたが、そういう肩書ですとか、そういうものをはなにかけたりするような生き方だけはしないようにということでしょう。(塩沼亮潤『大峯千日回峰行 修験道の荒行』)
諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、便壺のようなもの。
「改めてお前たちに言おう。本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ」
当今の修行者が駄目なのは、言葉の解釈で済ませてしまうからだ。
(『臨済録』)
工作員フィットでは、なにがしかの基準を達成するために活動しています。
しかし、冷静に見れば、マトリックス項目を1つ1つ埋めていったところで何が起こるわけでもありません。
と、思いながらも同時に、このような複数領域でのサバイバル力向上を目指して動かずにはいられません。
工作員基準を少しでも達成すれば、その事実や実績をあれこれ宣伝しなくとも、わたし自身の生物ステータスや脳の思考回路は、必ず変容しているはずです。
陸海空領域でのトレーニングを蓄積した暁に、私は身をやつす工作員になっていたいと思います。
峰「黄檗はどんな教えで雲水を指導されているか」
師「黄檗には教えはありません」
峰「どうしてないのか」
師「たとえあっても言いようはありません」
峰「まあ、言ってみなさい」
師「一箭西天に過ぐ」(『臨済録』)
強いニンゲン・弱いニンゲン
わたしは、複数の領域において生存力を高めるために活動しています。
それはある特定の領域で、一定の強さを持つということです。
しかし、ここでいう強さとは、フィジカル、あるいはフィジカルをコントロールするための心理的な部分です。
これとは別に、他人に対してや、社会のなかで生活する上での、精神や意志の強さとは何かについて、考えています。
今年読んだ本からいくつか参考になる個所を引用します。
……あらゆる生命は、共同体のために一定の有用性をもたねばならない。そして、この有用性がなくなれば、その生命は、存在すべきもはや正当な権利をもたず、場合によっては否定されることも許されうる、という考えである。
まさに強い者は、自分にとって弱い者がどんな有用性をもつかを問うことはしない(そのような問いは、せいぜい弱い者がすることである)。
そうではなく、弱い者の困窮が、強い者を新しい課題へ、つまり、彼の社会的有用性を発揮することへ導いていくのである。強い者は、弱い者に出会おうと、自分の力の軽減ではなく、いっそう多くの力を発揮する行動へと促される。社会的な有用性を失った生命は抹殺すべきだという考え方は、強者の抱く思想ではなく、むしろ弱者から出てくる思想である。
すなわち、神によって創造され保持されている生命は、その生命の社会的有用性とはまったく無関係な、その生命に内在する権利をもっている……。
生きる権利は、存在するもののなかにあるのであって、何らかの価値のなかにあるのではない。神の御前には、生きる価値のない生命など決して存在しない。なぜなら、生命それ自身が、神によって価値あるものとして保持されているのだから。(ボンヘッファー『倫理』)
「ある人が羊を100匹もっていて、その1匹が迷い出たなら、99匹を山にのこして、迷い出た羊を探しに行かないだろうか。……そのように、この小さくされた者がひとりでも滅びることは、天におられるあなたたちの父の心ではない」(マタイ)
イエスが示し、そして聖書が一貫して伝えることは、神はそのような、いちばん小さくされてしまっている人たちの側から働くということです。
上から下にへりくだる余裕があって、インテリであり、ギリシア語の新約聖書も読めますといった人たちにへりくだる仕方を教えるために、キリスト賛歌が書かれているのではありません。
だれよりも人の痛みがわかる、その人たちのところを神は仕事場にしていることをわからせるためです。
(本田哲郎『聖書を発見する』)
あらゆる人間にたいして義務が存在する。人間であるというただその事実ゆえに。
この義務は永遠である。人間の永遠なる運命に呼応するからだ。人間が永遠なる運命を有するという事実は、ただひとつの義務だけを要請する。
すなわち敬意という義務を。
この敬意が虚構ではなく現実において具体的に表明されてはじめて、義務はまっとうされる。(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』)
-
無の回峰行
記事がありません