無の回峰行

修験道と地形訓練縁起

回峰行

2026年6月以降、毎週末、山を走るトレーニングを開始しました。

山を延々と歩く(走る)という訓練内容から、修験道において実践されている回峰行や、千日回峰行はどうなっているのかに興味を持ち、調べました。

宮家準『修験道:その歴史と修行』1は、修験道の成立や教義・形式の細部が書かれており、素人が読んでも頭に入らない部分がほとんどでしたが、山を歩く修行(いわゆる「峰入」)の概略は理解することができました。

日本では古来から山が信仰の対象となっていたとよくいわれますが、そのような習慣は仏教が輸入されるよりも古いものでした。

平安時代に入り、天台宗・真言宗が起こると、その一部が修験道を発展させ、山に入り宗教的理想を実現する活動に取り組むようになります。

金峰山寺では特に篤信の行者が、吉野山と山上ヶ岳の大峰山寺の間を百日、さらには一千日往復する修行と、四無行といわれる蔵王権現を本尊とする堂内で九日間にわたって断食・断水・不眠・不臥して蔵王権現の真言を十万遍唱える修行が行われている。

峰入には細かい作法があり、またその行動の1つ1つにも宗教的な定義があります。

……修行の本質は、個人的に神秘体験を得ることにある。

私が週末に埼玉の山を走っているのは、工作員フィットの観点から持久力や地形走行力を向上させようとしているからであり、そこには宗教的な要素や神秘体験といった要素はありません。

山道を走ったり、トレイルランニング大会に参加したりしていますが、特定の宗教に帰依しているわけではなく、また神秘体験をしたこともありません。
不眠不休で走って幻覚を見たことはありますが。

山を延々と反復歩行・走行するといっても、修験道の回峰行と私の地形訓練とは、似て非なるものであることを確認しました。

光永覚道著『千日回峰行』2は、7年間をかけて千日回峰行を達成した、比叡山所属の僧侶に対するインタビューをまとめた書籍です。

千日回峰行の特色は、100日間連続、あるいは200日間連続で約35㎞・累積標高1000m程度の山道を参拝するという山岳訓練的内容を含むことです。

毎日夜2時に出発し、昼過ぎに戻ってきてから僧侶としての業務を行い、また翌朝の出発に備えます。

光永氏いわく、プログラムとして、徐々に体力が伴ってくるように漸進的に強度が高まる構成ではあるものの、やはり完遂するには多大な身体的負荷や苦痛を克服しなければならないとのことです。

私は腰が悪いので、ずっとそのせいで膝痛で苦労をして歩いているんです。千日回峰行の修行中どこも痛くなくて歩いたことは一度もありません。どこか痛いのが当たり前という状態で毎日歩いていました。

内海阿闍梨さんは堂入の年、600日目の修行中に腹をこわして、それこそ24時間かかって回峰されました。前日の巡拝がすんだら、次の日の巡拝に出る時間になっているわけで、ひとときも休まずに修行を続けなければいけなかったのです。

(酒井阿闍梨さんも赤山苦行の時に)足の右の親指を腐らせました。

無明の道

長時間・長距離の耐久・移動能力を鍛える地形訓練と、千日回峰行との間には、肉体的負荷という限られた部分においてのみ、共通点が存在します。

トレイルランナーの鏑木毅は、「ロングトレイルは失うものも多い」とSNSで述べていましたが、長距離能力は練習に多大な時間を要します。
練習環境や時間を確保するためには、職業や家族環境を含めた、生活全体をトレーニングのために変更していかなければなりません。

光永氏はコントロールについて以下のように発言しました。

百日の回峰をする人間は、自分自身をいかにコントロールするか。修行というのは、今風にいったらマインドコントロールです。
しかし、これが修行の基本です。自分のコントロールができない人間は修行する資格がないわけです。
自分の体調とか精神的なものを表に出さずに行動できるようにする。これが修行です。

工作員はあらゆる環境においても生き延びることが第一です。生き延びてから、敵を地球の果てまで追跡します。
途中で死ねば工作活動は完了できません。
そのためどのような厳しい状況であってもリスクをできる限り低減し、コントロールすることをめざしています。

毎日同じことを繰り返すのが行です。
自分でいつもある程度、厳しい状況を作ってやったんです。
そうでないと何かあった時に加減ができなくなります。常にいい状態で行をしていたら、悪いことがあった時に対応できなくなる。
条件がそろった状態で力を出せるのは当たり前です。

翌日に早起きして山に行かなければならないのに、夜遅くまでネットをやってしまう、ゲームをやってします、という事象も、やっちまった、と思いますが、あえて不利な状況を設定したと考えれば開き直れます。

一方、私の工作員活動、ここでいえば地形訓練(山や不整地を長時間移動する)と、千日回峰行には、大きな違いがあります。

千日回峰行は、宗教的な活動であり、また自身の能力や宗教的能力を向上させるだけでなく信徒や他人に対し何か役に立つ、貢献することを目指す活動です。

基本的には自利、化他を双修しなければいけませんから、自利行だけしていてはいけない。自分のことだけしていたらいけません。それは(略)と変わりません。

自己満足の世界です。

化他」とは、他人に対し教えを広め・伝えることを指します。
簡単に言えば何か人の為になることをするということです。

私の工作員活動にはその要素が全くありません。
完全なる自己満足の世界です。

陸海空その他の領域における能力を身につけたい、という意志は日に日に強化され、練習強度も上がっていますが、そもそも何のためにやっているのかはわかりません。

単純に楽しいからやるということとも違います。
私の能力不足もあるでしょうが、走っている間はほとんどつらいだけ、退屈なだけです。
純粋に楽しいと感じるのは、格闘技のスパーリング、スキューバダイビング、スカイダイビングだけです。

走るトレーニングは、完全に、必要に迫られてやっているという気持ちです。
そういうこともあり、「トレイルランニング」という言葉を使うのを控えるようになりました。
私はこのスポーツをあまり純粋に楽しんでいないからです。
自分では、抽象的に「地形訓練」と呼ぶことにしました。

40年間生きて、今なお目的もはっきりせず修行を続けています。
私は、これは無明の道だと思っています。
この活動は、悟りや宗教的な成長とは無縁の、不可解な活動です。

大菩薩峠

光永氏の本には、修行の内容そのものに関する記載だけでなく、一般的な話もあり、そちらのほうが印象に残りました。

誰もが、やはり一生懸命生きているものですから、結局、自分の力、自力で生きているというイメージが強いんです。

ところが、年をとってある程度の年齢になってくると、現実的に死が近づいてくるわけです。要するに自分の終わりが近づいてくる。そういうときに、自分は今まで何をしていたのかとの疑問に立ち至って、「あっ、こんなことではいけない」と気づくのでしょうね。

……会社に入って、元気でばりばりやっている人ほど、そういうことを考える暇がない。自分の現実に忙しすぎる。

常々、私は何をやっているのか、という気分になりますが、それは数十年間生活してきていまだに思うことです。

今現在も、こんな生活のままでいいのか、こんなトレーニングでいいのか、と常に疑念を抱いています。
疑念を抱きながらも、ダンベルを振りまわしてロープをよじ登ることしかできません。

今日何らかの原因で死ぬとしても、数十年後に死ぬとしても、今のままでいいはずがありません。

お坊さんの世界というのは、先が全然見えない。可能性もあれば、真っ暗でもあって、いいのか悪いのか、全く予測のつかない世界でした。そこで、予測のつかない人生に引かれてしまいました。

先の見えない世界、ある意味では可能性が無限大に広がっているほうに魅力を感じてしまった。人生は冒険ですよ。そういう部分があって、お坊さんになっていくわけです。

だから、私は職業選択の自由だと言っていますよ(笑)。

一般的な労働者として、このまま年金生活まで逃げ切れるかどうか不明ですが、逃げ切れたところで何も解決にはなりません。
忍者になりたい、工作員になりたいという強迫観念は、死ぬまで残るに違いありません。
それなら、今から全資源を投入して水中忍者・空中忍者・山岳忍者・近接格闘忍者に近づく活動をしたほうがいいと思います。

たくさんのものを失ってこそ、得るものもたくさんあるわけです。
ですから、人生の中で、あれもほしい、これもほしいというのは、私に言わせれば贅沢です。何か1つの結果を出そうと思い、その得られる結果が大きかったら、当然失うものも大きいはずです。
どちらもとるというのは、中途半端な人生だと思います。

戸愚呂弟やプロゲーマーウメハラ氏3も似たような発言をしていたと記憶しますが、やはり工作員になるためにどこまで捨てられるかというのが重要ポイントではないか。

  1. 『修験道』宮家準 講談社 ↩︎
  2. 『千日回峰行』光永覚道 春秋社 ↩︎
  3. 「「格闘ゲームでうまくなるにはどうしたらいいですか?」という質問に対し、「“格闘ゲーム以外でいかに弱くなるか”でしょね」と切り返したこともある。」介護の世界から返り咲いた鬼才プロゲーマー ↩︎
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