ストア派の2つの頭部

命令する精神と、服従する精神

日本語訳で迷う

セネカの著作『賢者の恒心について』の冒頭にある以下の一節を読みました。

以下は岩波文庫の兼利琢也訳1です。

セレーヌス、ストア派と、知恵を約束する他学派とのあいだには、雌雄のあいだに匹敵する差があると言ってよいとおもう。どちらの群れも共同生活に等しく貢献しているが、一方は服従のため、他方は命令のために生まれているのだから。

他派の知者たちは、優しくなだめすかして、ちょうど家隷の侍医が病んだ身体を、最善で即効のやり方ではなく、許可された仕方で行うのと同じような仕方で治療にあたっている。ストア派は男子の道をとり、進まんとする者に楽に見えるようになどと気をまわしたりしない。むしろ、出来る限り速やかに、われわれを拉致して、あの突出せる頂きへ導いていく。そこは、あらゆる兵器の射程を超えてそびえたち、運命をも超越して突出する場所だ。

私は当初、ストア派の哲学が「服従のため」にあり、他学派が「命令のため」にある、という風に読んでしまいました。
文の並びからすると、「ストア派=一方=服従」、「他学派=他方=命令」となるからです。

ただ、その前後の文章を読むとどうも解釈が違うようでした。
ストア派は、男性的=支配者にふさわしい教えであり、他の学派は軟弱・病弱であるというような文章が続きました。
参考のために、英語訳を確認しました。1900年にAubrey Stewartによって翻訳された文は次のとおりでした。

I might truly say, Serenus, that there is as wide a difference between the Stoics and the other sects of philosophers as there is between men and women, since each class contributes an equal share to human society, but the one is born to command, the other to obey.

(On the Firmness of the Wise Man2)

この英訳では、文章の意味が通りやすくなるように、「ストア派(the Stoics)=一方(the one)=命令するため(to command)」、「他学派(the other sects of philosophers)=他方(the other)=服従するため(to obey)」という語順をとっていました。

この並びであれば、ストア派=命令するための、男性的な教え、他学派=服従するための、軟弱・病弱な教え、という対比がすぐに理解できます。

では、そもそものラテン語はどうなのかと興味を持ち、原典を検索しました。

Tantum inter Stoicos, Serene, et ceteros sapientiam professos interesse quantum inter feminas et mares non inmerito dixerim, cum utraque turba ad vitae societatem tantundem conferat, sed altera pars ad obsequendum, altera imperio nata sit.

(De constantia sapientis3)

ラテン語原文では、「ad obsequendum(服従のため)」と「imperio(命令のため)」という順で並んでおり、日本語の語順が原文と同じで、英語は意味が通りやすいように語を並び替えているということがわかりました。

(ラテン語は読めないので、Google翻訳やAI翻訳を利用しました)

命令者の教え・服従者の教え

訓練・自由・時間

ストア派とは「ストイック」の語源にもなったギリシア哲学の一派であり、心の平静や、徳の保持、苦難の克服などについて4研究した著作が残されています。

忍者や工作員を目指す自分としては、ストア派哲学は活動の参考になると考え、代表的な本を読みました。

耐久力や生存力の向上を実現するためには、リスクのある状況において判断し、自身の心の平静や不動を鍛えなければなりません。
これは、安楽な環境では訓練できません。

実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今1つの部分を知らないでいることである。

君は不幸だ。不幸だったことが一度もないからだ。君は敵対者なしに人生を過ごした。君に何ができたか、誰も知らないだろう。いや、君自身、知らないはずだ。自分を知るには試練がいる。

度外れの幸運のために怠け者になっている者がみじめだと言われるのは当然である。

もっとも頑丈なのは、鍛えたところである。

(『摂理について』セネカ)

自由とは、自分にはどうしようもない外的事象に執着せず、心の平静を獲得することです。
そして、自由を得るのは非常に大変です。

自分の意志に反し、強制されて、ため息をつきながらなにかをなすことは、奴隷であることとなんの関係もないと思われるのか。

(自由な人とは)自分のものでないものをなにひとつ求めない人だ。

(『語録』エピクテトス)

真の意味で教育を受けた人にとって最もうるわしく最もふさわしいものは、平静であること、恐れのないこと、自由である。

自由人だけが教育を受けることを許されるという多くの人たちの言葉を信じるべきではなく、教育を受けた者だけが自由であるという哲学者たちの言葉を信じるべきである。

(『語録』エピクテトス)

道に精進する人間、善行にはげむ人間として人の目をみはらせるようなポーズをとらぬこと。

(『自省録』マルクス・アウレリウス)

ストア派は有言実行あるいは不言実行を重視します。
耳障りのいい言葉だけを操り、実態の伴わない人間は、本末転倒です。

哲学における第一の、そして最も必要な領域は、哲学理論の実行に関わるものであり、例えば、嘘をつかないというようなことである。

ところが、われわれは本末を転倒している。……そういうわけで、われわれは噓をつくが、嘘をつくべきではないということの論証は自分のものにしているわけだ。

(『語録』エピクテトス)

時間は人間に与えられた最大の資産です。

財産を守ることはけちであっても、時間を投げ捨てる段になると、貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、たちまちにして最大の浪費家と変わる。

誓っていうが、諸君の人生は、たとえ千年以上続いたとしても、きわめて短いものに縮められるであろう。

何よりも尊いものである時間が、もてあそばれているわけである。そのうえ時間は無形なものであり、肉眼には映らないから、人々はそれを見失ってしまう。
それゆえにまた、安価なものと評価される。……人々は時間を無料同然に惜しみなく使う。

(『人生の短さについて』セネカ)

あたかも一万年も生きるかのように行動するな。
不可避のものが君の上にかかっている。
生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。

(『自省録』マルクス・アウレリウス)

二面性

若干、共感が難しい部分もありました。

ストア派では、現実を現実として、自分ではコントロールできない事象として、つまり自らの徳や善悪とは関係のないものとして受け入れる、という態度を重んじます。
よって、問題のある現実を変革する、改善する、ということは、ストア派の本題ではありません。

「唯一君の力が及ぶもの、すなわち君の心像」

……

哲学は人間に外的なもののなにかを獲得することを約束することはない。

(エピクテトス『語録』)

エピクテトスやセネカが生きていた社会は、一個人がコントロールできる範囲が、現代よりも非常に狭かったのかもしれません。

いったいなぜ、世界が摂理によって導かれているのに、善き人びとにあまたの悪が生じるのか……。

神は善き者を甘やかしはしない。試験にかけ、鞏固にする。

善き人は苦労し、費やし費やされる。しかも、みずから望んで。

(『摂理について』セネカ)

われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。

(『心の平静について』セネカ)

このような考えは、個人が自分自身に対して用いるのであれば良いものです。

しかし、現状肯定・追認の言葉を、例えば悪徳支配者や暴君が唱えたら、それは服従者を都合よく説得する言葉になります。
そうなると、同じ言葉が、命令する者のための教えではなく、服従者の心がけとして働きます。

セネカ『摂理について』の冒頭で、「命令するための教え」と「服従するための教え」、ストア派がいずれに該当するのか戸惑ったのはそのためです。

言葉は道具・兵器である、という考え方に立った場合、ストア派の言葉を誰が何のために使っているかをよく見る必要があります。

精神的勝利?

エピクテトスは、我々を苦しませるのは、外的な事象ではなく、その事象を受け取った自分自身の心であると言いました。
つまり、我々を苦しませる原因は心にあるというのです。

要するに、死とか、追放とか、苦痛とか、その他こういった種類のものは、われわれがなにかをしたり、しなかったりする原因ではなく、むしろ判断や考えが原因なのです。

……

なぜなら、すべてにおいて行動の原因となるのはなんらかの考えであるからだ。

(エピクテトス『語録』)

この考えは非常に納得できます。
ただ、「判断や考え」がすべてであるという考えは、その程度が過ぎると、何がおきても「気の持ちよう」ということになります。

以下は、不正によって物理的・経済的な被害を被った賢者についてのセネカの説明です。

不正とは、何であれ、それが降りかかる人に損失をもたらすことである。誰にせよ、自身の何らかの損失、威信であれ、身体であれ、われわれの外部に位置する事物であれ、その損失をともなわずに不正を受けることはありえない。

しかるに、賢者はいかなるものをも失うことがない。

運命の手にあるものを必要とせず、したがって増えることも減ることもありえない。

徳は自由である。害されえず、動かされえず、打破されえず、偶然に対して堅固で、打ち負かされないどころか、傾きすらしない。

徳が健全ならば彼のものも安全だからである……。

(『摂理について』セネカ)

賢者は、ただ徳のみを保有しているので、殴られ、財産を奪われ、親類縁者を殺されても、賢者自身に備わっている、その徳性が失われなければ、負けたことにならない、という考えです。

哲学者のスティルポーンは、何か失ったものがあるか、と彼から尋ねられて、こういった。

「何もない。私のものは皆、私のもとにある」。

……彼は王から勝利を払い落とした。

(『摂理について』セネカ)

侵略者に征服された、略奪されたという事実は脇にのけられ、賢者が勝利したということが強調されます。

「ではどうなりますか。だれかがひとりぼっちでいる私のところにやってきて、私を殺すとしたら」

「馬鹿だね、その人は君ではなく、君の小さな身体を殺すのだ」

(『語録』エピクテトス)

私は、御託を並べてないで刺客を殺せ、と反射的に考えてしまいました。

思い出し

マルクス・アウレリウスを読んだのは9年前で、メモを読み返すまではほとんど内容を忘れていました。

改めて確認すると、マルクス・アウレリウスは、宗教的な傾向はあるが、比較的バランスがとれており、私のような現代人にも読みやすいという印象を持ちました。

セネカは、文章が装飾的であるのと、本人が皇帝ネロの側近だったという歴史的事実があり、多少の距離を感じました。

笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。
しかし他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである。

(『自省録』マルクス・アウレリウス)

  1. 『怒りについて 他二篇』岩波文庫 ↩︎
  2. On the Firmness of the Wise Man | Wikisource ↩︎
  3. De constantia sapientis | Wikisource ↩︎
  4. Stoicism | Britannica.com ↩︎
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